幸せになりたいのなら。
この本に「幸せになりたいのなら良い場所に住みなさい。」という教えがあります。
夢の終わり。
長いような短いような夢のような時間でした。
結婚して家を築き11年。2人の娘に恵まれました。
妻が私に「家族」という概念を教えてくれました。
二人の娘が私を「親」にしてくれました。
家には笑い声が溢れ毎日が幸せでした。
一昨年頃からふとしたことから隣宅に住む姑(私の母)の口撃が始まりました。
仕事で家を開けることも多い私に代わり、妻がその口撃を受け止めることになりました。
姑だけではなく、近くに住む小姑2人(私の妹)からの応援口撃も始まりました。
こうなるともうそれはいじめです。タチの悪い。
それに加えて、もともとおかしかった私の父が境界性人格障害と言うお墨付きをもらい、
その不可解、かつ、常軌を逸した行動が目立つようになりました。
楽しかった家が暗くなり始めました。妻の表情が曇り始めました。
そんな中でもたくさんの笑顔を2人の娘がくれました。
ただ、妻の表情が曇ると娘の情緒が不安定になり、
娘の笑顔がいずれ、なくなってしまうような気がしました。
家族とは何か。家族とは誰か。
家族を守るにはどうするべきなのか、
そのために私はある1つの選択をしました。
住み慣れた家から家族を避難させることです。
何を言っても話にならない人間から距離を置くことです。
弱い人間は従うしかない。
強い人間は抑えつけるしかない。
そこには争いしかない。争いは醜く嫌なものです。
私は争い、という概念が非常に苦手です。
私は弱い人間にもなりたくない、強い人間にもなりたくない。
それなら?賢い人間ならどうするか?と考えました。
「賢い人間なら距離を置き無関心となること。」
それが私の出した答えでした。
「距離を置く=逃げる」のは動物として自然な本能です。
我慢し耐えることは人間として美しいのではなく、本能に逆らう行為です。
人間だって動物、「本能に従い逃げる。」それは恥ではない。
妻が育った、住み慣れた、妻の大好きな父親と母親がいる、
妻の実家へ拠点を移すことにしました。
このお願いに嫌な顔1つせず、妻の両親が、
私たち家族を受け入れてくれることになりました。
もうとっくに私の両親や妹たちは私の家族では無かったのです。
それに気付いたら、大きな足かせが外れた気がしました。
私の愛すべき家族は妻と二人の娘です。
棄てていくことの大切さ
引越しの準備を始めていく中で「ものが少なく綺麗だ。」
と思っていた我が家は意外なほど棄てるものだらけでした。
持ち物の半分以上をこの1ヶ月で減らしました。
棄てることで、選択肢が減り、迷うべき時間が減ったような気がします。
私の人生ももう半分を過ぎました。
多くのものを棄て始めなければいけないように、
多くの人間関係も整理しなければいけません。
泣きながら笑う日を想い、笑いながら泣く。
私は仕事の関係もあり、今は東京を離れられません。
そして家族ではないと思いつつも、親は親。
経済力を失っている親の住む住居を確保する選択をして、
二世帯の住居の支払いは続けることにし、私も家を出ることにしました。
家族が去った家に一人で残ることは弱い自分には無理な選択でした。
いますぐには家族と共に暮らせませんが、
1日でも早くまた家族と暮らせるように、そして心から笑い合えるように、
それを原動力にして1日1日を大切にし、生きていこうと思います。
いつか泣きながら笑う、その時が来るまで、
私は強くなりたいし、それまでいつも笑顔でいたい。
だから今は娘たちの前では笑いながら心の中で少しだけ泣いています。
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