-7℃からおはようございます、まっさんです。2日目は歩いていてなんだかずっと悲しい気持ちでした。ただ、これこそが今回見に来たものであり、自分の中で消化しなくてはいけないものです。
常磐線の線路や捜索済とか、震災当時の写真
本日の移動距離
朝の雪化粧の阿武隈川、素敵すぎた。
てくてく、てくてく歩いて51km。
昨日と併せて90km。
歩くのはなかなか進まないし、、、。
走った方がずっと足も楽です。
ただ、荷物がどうにも重くて走れません!
手当てとか本当の優しさとか強さとか
過去の話になります。
私は震災当時、日本DMAT(大災害時の医療支援チーム)の一員として今日歩いた地区の医療支援活動に派遣されてたんですね。
でも、支援とは名ばかりで避難所をめぐる事しかできず何もできない毎日。
震災があってすぐの避難所では、誰もが口を固く一文字に結び、目には悲しみをたたえてずっと押し黙って交流を絶っているって様子だったんです。
毎日毎日避難所を訪れて、
声だけでも寄り添えないかと、
「困ったことがあったら言ってください。」
の上から目線から、いつしか、
「何か私にさせていただけないでしょうか?」
って言いながら体育館の中を歩く毎日に。
ある時1人のおばあさんがお話を聞いてくださるの?と話しかけてくださった。
おばあさんは、涙ながらに津波で息子夫婦も孫も家も全て流されてしまい見つからない。出先にいたおばあちゃんだけが生き残ってしまった、他の避難所にも行けないし家族を探しにもいけない、と。
その話を受け止めきれられるわけがなくて。
自分はその方の手を握って、背中をさすってあげることしかできず、込み上げるものを我慢するだけ。結局、何もできなかった。
しばらくして避難所が解散になる時に
「何もできなくてすみませんでした。」
って、言ったら、
あの時、話をして手を背中に当ててもらっただけでとても気持ちが楽になったのよ、と笑顔で言ってくださったことを思い出した。
その時、痛む場所に手をあてるのは手当てって言うんだ、あらためて大事な事だよな、と思ったこととか、
おばあちゃんの優しさに触れた時に、あの時、涙が止まらず、こんな状況で笑えるのって本当の強さだよな、って思ったこととか、
そんなことを思いながら一日中歩いた2日目。
がれきの山は固められて、避難用の丘になっていたり、
残念ながら、町ごと捨てられて高台に移転した集落も。
これ、何もないのどかな風景ではなくて、震災の前はここに笑顔も生活もあったんです。
この地区は本当に慰霊碑が多すぎて、、、。
まぁ、自分は津波が怖いですよとか言いたいわけではなくて、あの時こんなにも辛いことがあるのにみんなが前に進めたのって助け合って支え合ったからだよなぁ、今のコロナってなんでそんな風にならないのかなぁって思ったりもした。
緊急事態宣言ですけど
緊急事態宣言が出ましたね。
誰もが神経をとがらせて、平穏な気持ちになれないのはとても辛いですね。
こんな時、揚げ足を取っていがみ合うのではなく、辛い気持ちを共有したり助け合うって事はとても大事なことなのかなって。
マスクをしろとかするなとかそんな表面的なことじゃなくて、、、。
お互いを思いやる気持ちとかがこんな状況脱出するのに必要だと思う。
震災の時には助け合うことで乗り切ったこともいっぱいあったんだよなぁ、って。
実は厳しいご意見もいただいてます。
こんな時にブログに堂々と旅行のことを書いて、あんたバカですか、と。
ご意見、ありがとうございます。
自分が馬鹿なのはわかっているし、
加えて頭のネジも少しはずれてます。
でも、この馬鹿者にもう少し旅をさせてもらいたいと思っています。よろしくお願いします。
おなしゃーす。
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